2022/3/22~3/27 グレシャムの法則から言葉遊びをする。

グレシャムの法則:金本位制の経済学の法則の1つ。「悪貨は良貨を駆逐する」という要約で知られる。(ウィキペディアより一部抜粋)

この要約「悪貨は良貨を駆逐する」から、言葉遊びをしよう。というのが今週の雑記のテーマ。どうしても、不安定な世界情勢が目に付くので、それも考慮に入れてみようか。なんて思いながら書いてみる。

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グレシャムの法則を経済学ではなく、人の心に置き換えてみる。

早速言葉遊びをしてみよう。「悪貨は良貨を駆逐する」をどう変えると、人の心のあり方を表せるのか。一応、考えてみたけれど、一番自分の中で納得がいく言い換えは、「悪意は善意を駆逐する」だろう。

「悪意は善意を駆逐する」と考えながら、ウィキペディアのページを読み進めると、古代ギリシアの劇作家、アリストパネスという人が「この国では、良貨が流通から姿を消して悪貨がでまわるように、良い人より悪い人が選ばれる。」というセリフを自作の登場人物に与えていた。という記述を見つける。

古代ギリシアの人と同じようなことを考えている辺り、太古の昔も、現代も、人によって統治される環境に大きな差は無いのだなぁ。と思ってしまう。

歴史的には、暴君が国を治めるということはよくあったことだし、そんな様子から、「良い人より悪い人が選ばれる。」と思ってしまうのも頷ける。

現代においても、そんな「悪意が善意を駆逐」せんとばかりに、毎日大変な状況です。といった類の報道を目にしてしまう。報道も、日本語ばかりで理解していると、偏見を持ってしまいそうだから、BBC NewsをYou Tubeで一部でもいいから見てみようかなんて思っている所。

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実は「悪意が善意を駆逐する」を描いたと読み取れる漫画

読者の作品に対する読み取りは自由なものであることを前提に、自由に作品を解釈したいと思う。その作品は、『進撃の巨人』。

『進撃の巨人』の有名なシーン。主人公のエレンが巨人に対して「駆逐してやる」と言う場面は有名だと思うけれども、この作品を、ちょっと違った視点で読み取ってみたいと思う。

ちなみに、あの有名な場面。きっかけとなった「超大型巨人」は作中の登場人物の中にいたわけだけれども、つまるところ、壁に穴を開けたのも人類だったよね。ということは一応前提として知っておいてもらいたいと思う。

さて、この『進撃の巨人』が、どう「悪意は善意を駆逐する」に繋がるのかと言うと、調査兵団は、はじめの頃は、無垢の巨人を駆逐しようと頑張っていたわけで、「無垢」、つまり、汚れがなく純真な巨人を狩っていたということになる。

「無垢」が「善意」かどうかは置いておいて、ひとまず、「無垢」なら純粋、「悪意」は無いだろうと仮定できる。「無垢」ということで、本能のままに行動するから、欲求はいろいろあるけど、ひとまず「食べて」「寝る」という欲求を満たそうとしているようにも読み取れる。

そんな「無垢」をはじめは「駆逐」しようと頑張っている調査兵団。そう。「無垢」を「駆逐」。どちらに「悪意」があるのだろうか。という話。

「悪意が善意を駆逐」してしまう世の中なら、「悪意」を持った時点で、世の中の「善意」は駆逐されてしまうことになる。

さて、この命題、「悪意をもっている」ならば「善意を駆逐する」が成り立つとして、この命題の逆、「善意を駆逐しようとする」ならば「悪意をもっている」は成り立つだろうか。

この世の中で起こっている「駆逐」とも呼べる行為は、「善意」を「悪」だとすり替えることで始まっているのが普通のように思える。つまり、「まずは、仮想の敵を作る」ことから始まっている。「善意を悪にすり替える」→「悪を駆逐したいんです。なので支持してください。」→「支持されたので実行します。」と大雑把に流れると思うけれど、この一連の流れの中で、どこに「悪意」があるのかを考えると、一番最初の段階にあるとも思える。

こうなってくると、『進撃の巨人』で言うならば、ハンジが一番まともな気もしてくる不思議。いや、変人ではあるけれど、行動としては一番まともに思える。まずは理解することから始めようとする姿勢は納得できる。というか、本来は、本当の意味では理解出来なくても、理解しようと心掛ける姿勢を持つということが大切なのだろうけれど、多分、ないがしろにされていると思えるから、こんな考えになるのだろう。

まぁ、面倒なことを書いたけれど、「駆逐しよう」なんて考えを持った時点で「悪意」には染まっているか。

いや、なんのための駆逐なのかを考えないといけないよね。という反論とか、「人類のために」とか、「衛生管理上、ウイルスは駆逐しないと…」とか言う意見は一旦棚上げしようと思う。言葉遊びなのでね。

果たしてエレンは、「悪意を持ち、善意を駆逐したのか」「駆逐しよう」と思った時点で、自分は悪であることを自覚し、大義のために自分が犠牲になろうとしたのか。どうなのか。

果たしてこの世は、蔓延ってしまった「悪意」の収束先を、もう既に起こってしまった出来事の着地点を見いだせるのだろうか。

そもそも、「悪意」なんて蔓延らないのが一番だけれど、「悪意は善意を駆逐する」。大なり小なり、人は駆逐されそうな善意を、理性として保ちながら生きているのかもしれない。

今週のまとめ。

言葉遊びのつもりで書いていたけれど、結局、マクロで見ても、ミクロで見ても、大なり小なり「悪意が善意を駆逐する」そんな瞬間は誰にでも平等に訪れると思う。

「悪意」を持ってしまったことを振り返り、反省したり、学んだりしながら、「より良い善意」を持つことを心掛けることが出来ればいいかもしれない。結局、外からの「悪意」に「駆逐」されてしまうかもしれないけれど、たとえそうなったとしても、個人的なレベルで「悪意」を伝播させないような「善意」を持つ。こんな善人が大多数のユートピアは、おそらく、エデンの園くらいか。

成長し、「理性」を獲得して、行動が悪意に支配され「退化」する人は見るに堪えない。

まぁ、生まれた瞬間から退化が始まっていると考えられるから、当然とも思えるけれど。

「今を成長の瞬間」と捉えるか「今を退化の瞬間」と捉えるか。先週の話題に戻ってしまいそうなので、終了。

なんとなく、新しいことを取り入れられていないような感じもするから、明日から何かしら、好奇心を持って過ごせれば良いなぁ。思いつつ、今週の振り返りを終えようと思う。

P.S.自分と似たような考え方を持っていたアリストパネスとは、多分、友達になれたと思う。

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