コンフォートゾーンから脱却するのは大変だって話。

日記

自分が心地よいと感じる空間・場所のことをコンフォートゾーンというけれど、そのコンフォートゾーンから抜け出した先にこそ、面白いことが転がっているというのも事実。コンフォートゾーンを抜けることは時として苦痛だったり、躊躇う気持ちが蔓延ることがあるけれど、大なり小なり、コンフォートゾーンを抜け出すことは、大切だっていう話。

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コンフォートゾーンは、まるでブラックホールのようで

コンフォートゾーンに留まりたいと思う気持ちも当然だし、ちょっと外に出ることが億劫になることもある。

例えるなら、冬場のこたつ。あるいは、ちょっとぬるめの湯船。布団で寝ないといけないけれど動けなくて、リビングとかで寝落ちしかけている時のあの感じ。

このコンフォートゾーンの外側に出るには、労力だったり、気合がいる。時として、ストレスという重荷を背負う必要すらあるだろう。

色々な人に接することで分かってきたこともある。

子どもにある程度自由にやらせる環境を与えていたり、あるいは、人と関わることが大切だということを教わっていた人は、コンフォートゾーンを容易に抜け出す挑戦をすることができていると思う。

よく考えれば当然で、家庭だったり、そういった場所が、安心できる場所であるということを理解できているから、挑戦することもできるし、また、たとえ失敗したとしても、安心できる場所に戻ってくれば大丈夫ということが分かっているから、ちゃんと挑戦しようって思えているんだろうなぁ。と。

じゃあ、一方で、安心できる場所が無いような環境で育った場合はどうなるのだろうかというと、極端な話、学習性無力感というものを感じるはず。パブロフの犬の実験だったかで、分かったことだったはずなのだけれど、何か行動をするたびに、苦痛だったりショックを与え続けていると、行動すれば容易に解決することができるような問題でも、行動できなくなってしまうというもの。

この学習性無力感ということをよく考えると、世の中の世知辛い問題にも多少の理解が深まるはずで、例えば、いじめ問題。だいたい、いじめられる側にも問題があるという意見に関しては、そんな意見を言う人は、いじめられたこともなければ、いじめることもなく、かといって、本気で問題を解決しようと思ったこともない、日和見主義的な人が言う意見だと思っていて、先程の学習性無力感ということを考えると、いじめられるということは、常にショックと苦痛が与えられている状態で、時として簡単な解決策が与えられていたとしても、行動ができなくなってしまっていることが分かるはずだ。

そんなことを考えると、いじめられる側にも問題があるとか言うのは、正直、とんでもない暴論で、問題を棚上げしようとする愚行のようにも思えてくる。果たして、この今の世の中において、ロシア・ウクライナ戦争において、攻撃されたウクライナが悪い。と誰が言うだろうか?攻撃する側も考えて攻撃しているに違いない。それはいじめであっても、戦争であっても同じ。マクロかミクロかの違い。本質は変わらない。

そんな学習性無力感を感じたことがあって、安地がないような環境で育ってしまった場合、改善するには、少しずつ、自己効力感だったり、達成感を感じる必要がある。そう思う。

学習性無力感に陥ると、基本的に、行動の原理は他人から見て、おかしくないだろうか?という視点になってしまう。かといって、他人の評価を実際に聞くことはないから、自分の中の思い込みが激しくなってしまうと、行動することができなくなってしまうこともある。

頭の中の自分が語りかけるのは、過去に他人が自分に浴びせてきた罵詈雑言のようで、自分で自分をいたわる必要があるにも関わらず、自分を容易に傷つける。そうやって、自分のメンタルすら簡単にボロボロにしてしまう。

原因は、他人の視点で自分の人生を生きることにある。

他人に振り回されるくらいなら、自分で振り回したって良いじゃない。そんな風に、最近はようやく、というか、むしろ自分の人生に投げやりになっているからか、そのくらいの図々しさが出てきたようにも思える。わがままとはちょっと違う気がするけれど。どうせ他人の記憶には自分は残らない。くらいに思うようになっていて、いや、むしろ、少しずつ人間関係が切れていっている感じがして、結果として、他人の記憶に残らないのならば、それは、死を迎えたと同義である。くらいに思っているからか、もうすでに無い人間関係ならば、ちょっとくらいワガママになったって、大丈夫なんじゃない?くらいの感覚だ。

ネジ曲がって、紆余曲折あって生きてきたからか、もう、こういった考え方は変えられないだろうし、何か、雷に打たれるくらいの衝撃がないと、変わることが無いんだろうなぁ。とも思ってる。

学習性無力感。コレは厄介な現象で、万人が知る必要があると思うけれど、最近気づく。自分も含め、人って、そこまで知識無いよね。

自分の人生について考える時間が増えたと思う。

とはいえ、その過程で、無力感は伴っている。脱力感というか、諦めの境地だろうか。

もうだいぶ、痛みやら苦痛やら、ショックやらを与えられて、心は擦り切れて、粉々になって、再起不能になって、ハリボテくらいの修復をして、見せかけの自分を作っていて、事あるごとに、絶望のそこにたたき落とされて。

もう、人生経験のなかで、望めないこともあるだろう。

ワンピースでは、お前には何が残っている!!!とジンベエは問い、ルフィは「仲間がいるよ!!!」と答えたけれども、同じ質問を自分に投げかけられたら、「何も無い」って答えるかもしれない。

ほんと、今、何が残っているのだろう?何も残ってないなら、どうしよう。

虚無の中に、自分の好きなものを飾って良いと言われていても、学習性無力感を幼ながらに実感した経験からすると、好きなものって何?ってなる。自分の軸が無い感じ。多少の「好き」を心にしまえるようにはなったけれど、それでも多分、人並み以下。ミニマリストもビックリだと思う。

最近は、自分の中で、デジタル化がブームになっていて、ちょっとずつデジタル化しようとして、本すらキンドルブック、電子書籍で買いたいなぁ。なんて思っている始末。そのくらいになると、身軽になってくるのだろうなぁ。

もうちょっと早く、デジタル化してれば良かったかなぁ。

デジタルの象徴、AIも、物凄い進化を遂げていて、Chat GPT しか知らないというのも、ちょっと寂しくない?なんて思ってみたり。

知識を知りたい!っていうことに関しては、コンフォートゾーンなんて全無視して、未知に飛び込んでいくくせに、いざ行動となると、尻込みするこの感じ。コレはコレで味わい深いだろうか?

そういえば、以前、ラジオで、aiko三昧(aikoだけで8時間の番組)があったけれど、その時に、ハイヒール・ももこさんがゲスト出演していて、ももこさんが言うには、「行動しないともったいない。寝るのは死んだ後で!」って言っていて、衝撃的だった。

行動力の化け物か!!!って。

でも、いつもと違う行動をすると、いつもとは違うことがあるのも事実。頭の中の空想を、現実のものとして落とし込むこともできる。ちょっとの行動をすると、何かしらのイベントがある。全てが思い通りとはいかないまでも、自分が思い描いた一日というものが、行動一つで実現できたりもする。

運が良かっただけかもしれない。とはいえ、その瞬間は間違いなく有り難い瞬間で、感謝を込めて「ありがとう」を伝えたいような、そんな良い瞬間に、行動一つで巡り会えたりする。

日々を、ルーティーンワークで固めてしまうのも悪くないのかもしれないけれど、どこかで、ルーティーンから外れる行動も必要なのかもしれないなぁって思う今日このごろ。

一つの決断に大きい小さいはあるかもしれない。けれど、良い方向に転がるような行動を心がけていきたい。

[追記]

科学がつきとめた「運のいい人」によると、運がいい人は、あえてリスクをとるらしい。コンフォートゾーンという、安心安全をとるか、運の良さを求めてリスクを取るのか。さて、どうしようか。

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[2023 12/4 ~ 12/10:怜丁日記]

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