老害、改め、蝗害だと考えると腑に落ちる。

日記

シニフィエ(名前のないイメージ)に対して、シニフィエ(意味・名前)を与えたときに、元々のイメージと名前がどんどん乖離していくのが最近の世の中で起こっていることだと、ちょっと思っていて、その代表格が「老害」という言葉。改めてシニフィアン・シニフィエの関係を考えたときに、「蝗害」だったら腑に落ちた話。

スポンサーリンク

別に歳を取ったからといって、善人になるわけではない。

この「歳を取るにつれて、あるいは、年配になるにつれて、周りに悪影響をもたらす」というイメージ(シニフィエ)が沸々と湧いていたのかもしれない。

それが、最近になって「老害」という言葉が独り歩きするというところまできた。

言葉は文化を表すことを考えると、こういった言葉が共通の概念として認識されるということは、それだけ高齢化社会なのだろう。と同時に、人としての民度というものも問われている時代なのかもしれない。

もう少し、「老害」というシニフィアンに対する元々のシニフィエ(イメージ)を捉え直そう。

元々は、「クレーマー」という問題だったはず。それが、時代が移る、あるいは、それなりに日本という国が成熟して、若返りができなくなってきて、新陳代謝が衰えてきた国の中において、全体的に年齢が上がったことと、「クレームを付ける人」の問題が合わさってしまって、「年配の人がクレームを付けることに対する嫌悪感」になり、「年配の人の融通が利かない発言や態度に対する嫌悪感」になり、「年配の人の自分の時代は…という、自分の意見の押し付けに対する嫌悪感」になり…最終的に面倒になって、歳をとった、いわゆる、老齢期に差し掛かっているような人をまとめて、全員悪。といった過度な一般化の末に出来た言葉が「老害」という言葉なのだろうと思う。「老・即・斬」みたいな感じのイメージにもなってると思う。

元々のシニフィエ(イメージ)はクレーマー、ひいては、人間的に道徳的ではない、あるいは、「善い行いが欠けている人」なのだろうけれど、それを表すシニフィアンが、日本という国の中の文化においては、「老害」という言葉になってしまったという。

正直なところ、たしかに、年齢を重ねることが、決して「善い振る舞いを身につける」ということを意味しないことは分かってきた。結局は個人の問題だと。

ただ、これは、別に歳を重ねようが重ねまいが関係なくて、年齢関係なく「善い振る舞い」を身につけようと思えば誰でもできるはずなのである。正直なところ、小学生の社会のほうが、まだ平和に思える部分もある。面倒ないじめ問題を除くならばという条件付きだけれども。(ただ、子供は大人の振る舞いを見て学ぶ部分が多いとは思う。これ以上は何も言うまい。)

さて、「善い振る舞い」が出来ていない年を取った人という集合に対してつけられたであろうシニフィアン(名前・意味)が「老害」だったのだろうけれど、当然、それ以外にも集合はあって、年を取っていない「善い振る舞いが出来ていない人」という集合もあるわけで。

「老害」という言葉が、シニフィエを飛び越えて、字面だけが独り歩きするに至った今日この頃な訳で。個人的には、一人の人間をしっかりとみて、自分にとって「善い」のか「悪い」のかを判断したいのだけれども、「老害」という現在のシニフィアンと世間が持つ共通認識を考えると、この言葉を使いたいとも思えない訳で…(別に使う必要もないのだけれども…)

とはいえ、自分にとって、「悪い」影響がある人といった枠、シニフィエを表す言葉は欲しいなぁ。と思って考えていたときに降ってきた言葉は「蝗害」だったのである。

そもそも蝗害って知ってる?

蝗害(こうがい)とは、バッタが大量発生することによる農作物の被害のことを言っており、日本は国土が比較的狭いことから、蝗害の報告は少ない方なのだが、海外に目を向けると、大変な被害になっていたりする。

なんで、さっきの話から、バッタの大量発生「蝗害」なのかというと…

この「蝗害」が起こるメカニズムとしては、ざっくりと、
バッタ大量発生する

餌となる植物を食べ尽くしてしまう。

バッタが大量に飢餓状態に陥ってしまう

共食いを始める

共食いから逃げる&新しい餌場を探す

農作物が被害を受ける

といった感じ。

恐ろしいのは、共食いから逃げるために新しい餌場を探すってところ。逃げないと背後から食べられてしまうらしい。恐ろしい。群れを成したバッタは、自分の食欲を満たすために他者を喰らうのである。

さて、これが「蝗害」の概要で、アニメ『呪術廻戦』でも、この「蝗害」をモチーフにした呪いが出てくるのだけれど、「老害」改め「蝗害」にするべきなのはどういったところなのかを埋めてみようと思う。

「老害」改め「蝗害」としたほうが良いと思ったわけ。

「蝗害」の「後ろから食べられないようにするために逃げる」っていう部分。

フランス哲学的だなぁ。って思ったわけです。はい。

どういうことかって言うと、後ろから食べられないように逃げているそのバッタは、仲間から逃げると同時に、自らは(飢餓状態に陥っているならば)眼の前のバッタを食い殺そうとするわけで、これは、フランスの哲学者サルトルの言うところの、「自らが鍵穴を覗く時、自らもまた他者から見られているのだ」といった、書籍『存在と無』の中の記述と同じような構造をしているように思える。

んで、これが、どう「老害」に結びついていくのかと言うと、

そもそものシニフィエ(イメージ)は、クレーマー、ひいては、人間的に道徳的ではない、あるいは、「善い行いが欠けている人」だったのを覚えているだろうか。

「善い行いが欠けている人」(クレーマー)は、眼の前にいる人(店員)の品位を貶める目的で、ありもしないクレームを言ったりするということをよく聞く。ただ、クレーマーの周りにいる人たちからしたら、品位が下がっているのはクレーマーであって、店員ではない。

クレーマーが何から逃げているのかは分からないが、目の前の人の品位を貶めようとするその行為は、結果、周りから見られたときに、自分自身の品位を下げていることに気づいていないようなのだ。(ネット界隈だと、この現象も顕著なのだろうか?匿名性はこういったデメリットを孕んでいるのかもしれない。)

その他、融通が利かないことであったりも、同様で、マウントを取るとまではいかないけれど、自分自身の品位だったりを高く保とうとする行為によって、相手の品位を落とそうとするならば、結果的に、周りから見たときに、自分自身の品位が下がるのは、バッタが眼の前のバッタを食べようとしつつも、後ろから食べられないように逃げている構図と同じように感じたのだ。

他にも、「情弱」という言葉を武器に、「知らない人」を相手にマウントを取る行為もそう。

全てはイタチごっこ。

人は皆、自分が見たい世界の中でしか生きていないのだから、マウントを取る必要もないし、誰かを貶めようとする必要もない。(けれど、どうやら、シャーデンフロイデの感情は密の味のようで…)

結局、「善い人」というのは、自分の中に作り上げるしかない訳で。

「善い人」であるために、非道徳的な人間の思考をトレースする必要はなく、理解する必要もないのかもしれない。きっと、「善い人」は「聖人君子」ではないのだから。

人には結局裏があるし、裏では何を考えているのかは分からない。「善い人」ってなんだろう。「非道徳的な振る舞い、あるいは、他者を貶めようとする人」の動機はなんだろう。とか、色々考えたけれど、「自らの優位性を保とうとするために、誰かを冷遇したり、見下したり。」そんな態度で社会と関わっているような人の振る舞いは、バッタと同じで、「蝗害」だなぁ。なんて思ったのが、「老害」という言葉より、上位の集合で包含する言葉として「蝗害」はピッタリだなぁ。と自分の中では腑に落ちたのが今週のハイライト。

ある議員が海外の研修の写真を上げたのも、結局、品位が上がるどころか下がったし。

社会と関わる以上、「自分が行動する」ということと「誰かから見られる」というのはセットになっているのだろうけれど、ネット社会が追加で「晒す」ということも同時に行われることがある。

情報化社会になって、「行動する」「見られる」「晒す・晒される」という三竦みの状態が絶妙な均衡を保っている現代では、どうしても誹謗中傷が常にまとわりついているのかもしれない。湿気みたいで嫌だね。

「善い人」ってなんだろう。

蝗害なんて、きっとそこら中で起こってる。そう、あなたの隣でも。いや、もしかしたらアナタ自身も…

自分自身の見たい世界の中で生きることができれば幸せなのだろうけれど、好きも嫌いも、したいことも、したくないことも、全てが誰かの受け売りだったり、自分の「我」みたいなものが、自分の中に「芯」の状態で存在している訳ではなく、水面のように揺蕩っていてフワフワしていると、そもそも、自分が見たい世界ってなんだろう?って考えてしまう。

幼少期に否定されることが無かった人は、考えることがないことなのかもしれない。

幼少期に否定され続けてきた人ほど、「自分自身」という存在に疑問を抱くのかもしれない。

まさに、『失われた時を求めて』毎朝紅茶を飲んで何かを思い出そうとするのかもしれない。

スポンサーリンク
ブログランキング・にほんブログ村へ

[2023 9/18 ~ 9/24:怜丁日記]

コメント

タイトルとURLをコピーしました