2022 11/14~11/20 問題の原因と、問題によって起こった結果

この週は、ふとした拍子に、心臓疾患によって、
心臓移植手術を余儀なくされた子供たちに関するニュースを見た。
何も考えずにニュースを受け流すだけだと、単純に、
「費用が大変みたいだから、寄付でも出来ないだろうか?」
などと直感的には思うのだけれど、
よくよく考えると、この直感的な思考は的外れで、
何の解決にもならないことに気づく。

タイトル通り、
「問題の原因と、問題によって起こった結果」
について考えた週。

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問題の原因は、たった1つでも…

とある問題の原因となっている事柄は、たった1つだったとしても、
その問題によって引き起こされた結果の形は、様々な場合が多い。

特に、メディアにおいては、問題に対して、結果的に何が起こっているのか、
それは悲劇的なのかどうか。人の感情を動かすものかどうか。
弱い立場の人を救いましょう、と謳うのか。
強い立場の人間を引きずり降ろそうとするものなのか。
こういった視点で、出来事を切り取っていることが多いと感じる。

結果だけを見ても、感情が動かされるだけで、
問題の解決には至らないことが多いのが現実ではないだろうか。
別に、感情を動かされることが悪いわけではなく、
本質的な部分の解決を考えないと、いつまでも同じような結果が
起こり続けてしまう。
表面的な部分だけを受け取って、表面的に対処して…
結局のところ、イタチごっこを繰り返しているだけでは無駄。
果たして、実際問題、本質となる原因を追求出来ているのだろうか?

バイアスの観点から考えると、人は感情で動いてしまう生き物だから、
仕方ない部分はあるけれども、「感情が動いた。」と認識したら、
一歩引いて、あるいは、一旦立ち止まって、考える時間を持つことが大切。
車の運転で、一時停止をしていない車は多いかもしれないけれど、
こと思考に関しては、この「一時停止」が本当に大切だと思う。
この「一時停止」した時間を使って、因果の繋がりを探し出し、
本質的な問題を理解する心構えを持つことが大切ではないだろうか。

今回の、心臓移植手術問題を例に取ると…

ニュースで取り上げられた部分は、
「心臓移植手術のための費用が、円安の影響もあり、見積もりよりも増えてしまった。」
「費用を負担しきれないけれども、子供の命を救いたい。」
「わがままだとは分かっているけれども、助けていただきたい…」など。

焦点が当たっている部分は、8割が「結果的に起こった出来事」で、
その本質である、「ドナー不足」や、「臓器提供者数が少ない」
ということに対する策、「どうやって、ドナー不足を解決するか」や、
「臓器提供者数の数をどうやって増やしていくのか」といったことに対する
「解決のためにすべきこと」を啓発することは、殆ど無い。

「ドナーがいないことに対する結果として、手術費用が増えてしまう。」
「その費用を賄うために協力してあげよう。」
という心構えや、金銭的な余裕に対しては、素晴らしいことだと思うけれど、
ここで行っている行動は、正直なところ、焼け石に水なのだろうと思う。
こうやって、いくら結果的に悲劇が起こっているからといって、
全ての悲劇の渦中にいる人間を、救うことは出来ないだろうし、
救われた側が、協力してくれた人たちに何かを返すかというと、
疑問が残る部分がある。

「〇〇の結果が大変そうだから、助けよう」
という思考回路は、自己満足であり、自分が優越感に浸りたいだけ。
多少、乱暴な物言いになってしまうのは、ご容赦いただきたい。
ただ、その行動で、結果は改善されるかもしれないけれど、
物事の本質は改善されていない。
本質を改善したほうが、その後、同じような境遇の人を
必ず助けられるようになるかもしれないのに…

「ドナーが不足していることの原因は、臓器提供に関する知識が足りないこと」
つまるところ、理解不足であり、知識不足であり、説明不足。
あるいは、多少苦痛を伴うことに対する思考不足。
ここに存在する苦痛を伴うこととは、死後の扱いについて。
自分の「死」という、必ず経験する出来事について、
考察が成されていないことも、問題の1つだろう。

あるいは、「トロッコ問題」を、ただの机上の空論だと思っていて、
実際問題に落とし込めていないのかもしれない。
今回の「ドナー不足問題」も「トロッコ問題」と同義だと感じる。
1人を救うという決断も出来るかもしれないが、
将来的に、複数人の命を救うことが出来る選択もあるかもしれない。
果たして、1人を犠牲にするのか、あるいは、1人を救って複数人を犠牲にするのか。

「哲学」と聞くと、気が引ける人が多いように思えるし、
「道徳」という教科で、「他人を思いやりましょう」といった、
言ってしまえば「空気を読む」ことを教え込まれる日本人にとっては、
全くと言っていい程に、「思考力」が不足しているのかもしれない。

「問題によって起こった結果」に対して、何らかの行動を起こし、
問題に対処した気になって、優越感に浸ったりすることを是としていたり、
あるいは、その一連の行動を美化し、美しさを振り撒くことを、
「美しいでしょ?だから、あなたも美しくなりましょう?」と、
問いかけることを是としていたり…
考えてもみてもらいたい。その行動を起こした前後で、
自分の能力は向上したのだろうか?
あるいは、問題に対処できるだけの経験を得たのだろうか?
そんな訳はないことは、自分が一番分かっているのではないだろうか?

まとめ:原因を突き詰めることが大切。

果たして、その目の前で起こっている出来事の、本質的な原因は何だろうか?
今、その瞬間に、感情で動こうとしてないだろうか?
現在、落合陽一氏の書籍『働き方5.0』を読んでいるのだが、
思考の深さに共感を覚えるし、実際問題、自分が足りていない部分も見えてくる。
『働き方5.0』=働くことに対する思考なので、
一つ一つの日常的な問題に対しては、不向きな思考かもしれないが、

  • 「それによって、誰が幸せになるのか」
  • 「なぜ今、その問題なのか」…

一部を抜粋しましたが、日常的に、思考を深めるならば、
「それによって、誰が幸せになるのか」という部分の、
「誰が」という人数を増やすことが出来るならば良いのだろう。
数人ではダメ。
将来的に、最低でも、数百人単位で幸せに出来るかどうかを考えてみよう。

「なぜ今、その問題なのか」という問いに対しては、
日常を生きていて、「考えたことが無かったから」という答えが浮かんだら、
考えるべき問題なのだろう。当然かもしれないけれど。
この、「当然」の感覚から、実際に調べるということを通して、
自分自身の知識や、見識、思考を深めることが出来ると良いのだろう。

散々書いたけれども、まとめると、
「感情で行動すると、ろくなことにならない。」
ということでした。
感情で動く前に、思考を働かせるべきだし、
問題があるならば、原因を追求すべきだし。
結果に一喜一憂しているようでは、ド三流も良いところ。
日々の細かい結果に流されるのではなく、
本質を考えてみる時間を持つことを心掛けたい。

P.S. ドナー不足に関しては、改めて考えさせられる部分もある。
今、こうやって生きていることを当然と思ってはいけないのだろう。
ありとあらゆる普通の出来事が幸せであるということを、
再認識することも大切なのではないだろうか?
なぜなら、明日、突然、
自分が、あるいは、大切な人がこの世から去ってしまう…
なんてこともあるかもしれないのだから。
まずは、日々、生きていることに対して感謝を忘れないようにしたい。
もし、この世から別れることがあるならば、
死後、誰かの役に立つことも出来るのかもしれない。
一歩立ち止まって、臓器提供に対して考える良いキッカケだった。

日本臓器移植ネットワークのホームページはこちら。
https://www.jotnw.or.jp/

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