2022 5/16~5/22 「行動力」について考える

先週、雑記の記事を書いて、次の日に散歩しながら、
次の雑記のテーマは何が良いかなぁ。と思って、
ふと降りてきたのが、「行動力」というワード。
ついでに、NHK『100分de名著』でも、
ニコマコス倫理学の中で、「行動力」をテーマに
番組が製作されていたので、タイミングが合うなぁ。
と思っていました。
ということで、今週のテーマは、「行動力」についてです。

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「行動することが大切」と声高に言うけれど…

「行動力」を考える時に、まず考えないといけないのは、
「そんなにすぐ行動出来る訳でもないんだけど…」
ということ。この、「行動に移す」という際のハードルを
よく考えないといけないような気がする。
金銭的に…等のように、「物理的」にハードルが高い場合もあるけれど、
今回は、「物理的なハードル」ではなく、
「心理的なハードル」を考えてみたい。

自分にも、よくあることなのだけれども、
「よく分かってないから、調べてから行動してみる」
ということをよくやる。
そうすると、デメリットばかりに目が向いたりもするから、
結局、行動する頻度は少なくなってしまう。

ただ、この「調べて行動する」ということ自体が
悪いことではないのは確かだと思う。
最終的に、自分にとってメリットが大きければ、
行動するというルールが決まっていれば、
大きな問題は無いように思える。

この「調べて行動する」ということの「心理的なハードル」は、
メリット・デメリットを天秤にかけている分、分かりやすく、
至って普通のことなのかもしれないけれど、
あまり、取り上げられることのない「心理的なハードル」も
あるように思える。

それは、「どうせ自分なんて…」という自己嫌悪なり、
自己卑下に関係する「心理的なハードル」だ。

いや、正確に言うと、取り上げられているのかもしれないけれど、
常に見過ごされているのかもしれない。
「自分はどうせ…」も行き着くところまで行き着くと、
鬱っぽくなってしまうから、あまり深くは触れないでおくけれど、
自己嫌悪に陥っていると、どうしても、「行動すること」自体の
ハードルがとても高くなってしまう。
「行動」自体に優劣もなければ、「行動しない」ことが悪い訳でもない。
今の社会的な風潮で、「行動する」ならば、「完全無欠であれ」かつ、
「完全無欠である」ならば、「行動しろ」という
必要十分条件が成り立っているような、誤った潜在意識みたいなものが
蔓延っていて、その「完全無欠」に傷が付いた時には、「謝罪」をさせ、
それを見る大衆は、シャーデンフロイデ的な感情を抱いて悦に浸る流れが
出来てしまっているのも、あまり良いことではない。

そんな、高すぎる「行動」に対するハードルを乗り越えるには、
どうすれば良いのかを考えるのだけれど、
そもそも、「ハードルは越えるもの」と捉えるのはどうなのだろう。
という、前提をぶち壊してみようと思う。
「ハードルが高いなら、下をくぐってみれば良いじゃない」
そう。そもそも、「ハードル」に立ち向かうのではなく、
自分が出来ることは、「ハードルを越える」ではなく、まずは、
「ハードルをくぐること」なのだから、
周りと比較する必要も無いじゃない。
一旦、こんな風に考えて、落ち着いたって良いじゃない。

行動したら、行動したで…

じゃあ、実際に、ハードルをくぐってみたり、
倒してみたり、無視して回り道してみたり、色々やって、
「行動」したとすると、そこに待っているのは、落とし穴。
「行動する情報弱者」を狙うトラッパーは、
いつでもそこに、落とし穴を仕掛けていて、
「行動する情報弱者」が落とし穴に落ちるのを、
今か今かと、待っている現実もそこにはある。

大事なのは、
情報を精査して、考察して、選び取る
という作業なのだけれども、やっぱり、
「人は皆、楽をしたい」と思うもの。
そこに付け入る輩もいるこの社会。
どうやら、上手に回っているようです。

この、情報を、精査する、考察する、選び取る
という作業は、とてつもない労力なのだけれども、
そもそも、これは、
落とし穴に落ちないよう「行動する」ためのガイダンス。
ただ単に、落とし穴に落ちないようにするだけならば、
たった1つ、「楽が出来る」という言葉を疑えば良い。
そもそも人生、「生きることは辛いこと」という認識に立てば、
楽をしたくなるのは当然だけど、
楽をすること自体、異常なのだと思っておけばなんてことない。

人の良心に漬け込むものもあるのが、たちが悪いけれど。
そんなものに対しては、
良心の呵責を持たないことに呵責を覚えるくらいの感覚を
持ちたいものだけれど、そうするためにも、
情報を選び取るという作業が必要という無限ループ。
(ちなみに、良心の呵責を覚えないことに呵責を覚えるという
賭ケグルイの言葉は結構お気に入り。)

賭ケグルイでは、人が行動することに焦点が当たりやすいけど、
「行動する」ことも、「行動しない」ことも、等しく重要。
そのちょうどよい間をとる、「中庸」をとることが、
ニコマコス倫理学では、大切と説くけれど、その「中庸」が
難しい。それが出来たら苦労はしない。
この中庸道化連め!(←ここらへんは転スラ)

結局、行動出来ない理由とは?

収まりがつかなくなりそうなので、ここらへんでまとめます。

結局、人が行動出来ないのは、
①行動するための自信がない。
②行動してミスをしたくない。
③行動した後で、落とし穴に落ちたくない。
④行動して、結局無駄だったと思いたくない。

と言った4つが考えられそう。
①の場合、解決策は、「ハードルをくぐること」
少しずつ、自分の出来ることを認めながら、
ちょっとの前進を認めることで、次の行動のための
エネルギーが溜まっていくのだと思う。
本当に些細なことからでいい。
息を吸って生きているだけで偉い。
一日生き延びただけで偉い。
そうやって生きて、何か行動するなんて、
すごく偉い。そんな風に思ったって、バチは当たらない。

②の場合、周りの人の「シャーデンフロイデ」に
喜びすぎているかもしれない。こんな人は、
「行動してミスをしたくない=ミスを指摘されたくない」
という一連の思考の流れがあるのだろう。
人間だもの。「ミスはする」それは当たり前。
人を許して、自分を許すことで解決できそう。

③の場合、行動と情報収集のバランスを取れば良いのでは?
行動しすぎて、気づいたら落とし穴だったのならば、
一歩を小さくするなり、行動の前に、指差し確認的な
チェックをしても良いのかも。
ニコマコス倫理学の「中庸」という考えが導きになりそう。

④の場合、そんな無駄はそもそも無い。
贅沢な悩みだと思います。神々の遊びでもしているのでしょう。
全知全能の神が、適当に、「あれはどうかな?」「こうしようかな?」
とか言いながら、結局、「やっぱり無駄かwww」
とか言っている、そんな情景が目に浮かぶ。
いや、大量生産、大量消費型社会の成れの果てか。
「行動」すら、大量生産、大量消費して無駄遣いしているパターン。
今は、SDGsが主流。循環型社会を目指しましょう。
自分の行動した経験だって、別のところで活用出来たりするもの。
人生で経験した事柄は、全て循環して、
どこかで、上手に活用出来るときが来るのかもしれない。
もしくは、上手に活用出来るタイミングを作り出せるのかもしれない。
人生って、そんなものなのかもしれない。

まとめ

今週のテーマは「行動力」だった訳だけれども、
書いていて思った。
毎週雑記を書いていて、偉い。
継続出来ているなんて、偉い。
今日も生きているなんて、偉い。
そうやって、自分で自分を認める瞬間も大事だなぁ。

生きていると、ふと闇に落ちかけることもあるけれど、
落ちたら落ちたで、これは、別の世界に通じるワームホールか!
なんて思えるくらい、ポジティブだと気が楽なのだけれども。

いや、そもそも、闇に落ちていると認識する必要もないくらい
忙しくしていれば…、いや、忙しくするにも行動する必要が…
いや待て、そもそも、行動出来…

無限ループに突入しそうなので、今週はここまで。
今週も、ちゃんと生きた自分は偉い。
ちゃんと生きた自分に感謝!

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