2022 7/25~7/31 ミニマリスト的思考のススメ

文字通り、今週思ったことを徒然なるままに書こうかと思います。
今週の大きなメインは、ミニマリスト的思考について。
サブタイトルは、理解し合える人がいる素晴らしさ。
繋がりが見えないような気もしますが、
メインとサブを繋げることを考えていたのが今週でした。

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ミニマリストが注目されている昨今。

ミニマリストと聞くと、何もかも捨て去る人のような、
そんなイメージを持つ人もいるようですが、実のところ、
大事なことは、私達一人一人が、自分の価値観を持つということなのだろう。
と、「ミニマリスト」という言葉を聞くと、そんなことを考えます。

とりわけ、現代の資本主義社会においては、物がありふれており、
いわゆる”良いもの”が多く存在している訳なのですが、
「物」をたくさん所有することには、「意味が無いのでは?」と、
疑問を投げかけたブームが、「ミニマリスト」なのでしょう。

自分にとって、本当に価値のある「物」とは何だろうか。
このことを考えることが、「ミニマリスト」の始まりのように思えます。
「物」に価値を見いだせない人は、もしかしたら、
「経験」に価値を置くかもしれません。
ただ、この、「考える」という作業を、現代に生きる全ての人が、
放棄せざるを得ない社会が、資本主義社会なのだと思います。
時間を搾取されると、「考える時間」すら、奪われてしまいます。
自分にとって、「本当に価値のある時間の使い方とは?」
という疑問を自分自身に投げかける時間を持ち、
その疑問の、自分なりの答えに近づけるよう、少しずつ行動することが、
自分自身の幸せに繋がる道なのだろうと思います。
考えることを止めてしまっては、現代の社会という波に飲まれて、
気づいたら、遠くの「老い」という未来まで押し流されるかもしれません。
考えられる時に、しっかりと考え、波に抗っておかないと、
自分自身の思考の持久力が無くなってしまうように思えます。

「ミニマリスト」とは、私達が考え抜いた先にある、
自分自身にとって、「価値のあるもの」に囲まれた生活を指す言葉。
そのように思えるのです。
この、「自分自身にとって価値のあるもの」は、
「他者にとって価値のあるもの」とは異なるのは当たり前で、
「自分にとって価値があり、必要なもの」に疑いの余地が無ければ、
自分以外の騒音には耳を傾ける必要がなくなるように思えます。
それこそ、「自分にとって価値のあるもの」=「自分が信じることの出来るもの」
になり得るはずで、「価値のあるもの」以外は、(宗教を除いて)
自分に入り込む余地はなくなるようにも思えます。
いわゆるカルトが蔓延る原因は、自分自身の本質や価値観を考えることを
放棄した結果のようにも思えるし、また、その価値観を考えることが嫌で、
他者に委ねて楽をしたいと思った結果のようにも思えます。
これだけ聞くと、自己責任論のようにも聞こえてしまいますが、
もちろん、カルト自体は良くないものでしょう。ただ、それ以上に、
この社会全体が、”ごく一般的な幸せ”を得られなければ、価値はない。
といった類の同調圧力に押しつぶされてしまっていて、
その圧力から抜け出したいがために、すがりついた『蜘蛛の糸』が、
カルトだった。というようにも見えてしまいます。

自分自身の生活を見直し、
「自分にとって価値のある生活とは何か?」
という問いに答えることを、
この機会に考えてみるのも良いのかもしれませんね。

人間関係がミニマリストになつてしまつたやうです

中原中也さん辺りは、人間関係も再解釈して、
ダダイズムとするのでしょうか?

ひとまず、人間生きていると様々な経験をするわけですが、
ひどく落ち着きのなく、人を信頼出来ず、人に裏切られるということを
見続けていると、自分自身の人間関係は希薄なものでも良いと思えるのです。

よく、「自分は友達が少ないんだよね」ということを言える人には、
きちんと友達がいると思うし、「人間関係は微妙かも」なんてことを
平然と言える人には、もう既に、素晴らしい交友関係があったりもするでしょう。
こと「人間関係」においては、ミニマリスト的になるべきでは
ないのかもしれません。信頼できる人は多いに越したことはありません。

しかし、気づけばミニマリスト的な人間関係しか持たなくなってしまった
自分自身を見つめ直してみると、そもそも、「分かり合える」という経験自体が
少ないような感じもするのです。
良くて、「4〜6割程度」分かってくれたらそれで十分。
「1〜2割程度」分かってくれるだけでも有り難い。
別に、分かってもらいたい訳でも無いですし、
そこまで多くの人と関わるのも疲れるので、気にしていないのですが、
ただ、自分自身の「本質」のようなものを誰かと共有したり、
理解しあえることは無いだろうと、そう思っていた訳なのです。

ただ、「たった一人」でも自分の「本質」あるいは「本質に近い価値観」を
理解し、共有出来る人が現れた時の感動は、優れた芸術作品を鑑賞する感覚に
近いものがあるようにも思えます。
きっと、そんな感動を共有出来る人がいるだけで十分なのでしょう。
自分の価値観を押し付ける訳でも、あるいは、
自分が他者の価値観に寄せている訳でもない。
そんな自然体でいられる存在がいるのなら、
そんな人との関係は、どのような間柄であっても、大切にしたいと思えます。

きっと、「自分を分かってくれるし、相手も分かってくれる」という関係性が
作れることのほうが、少ないかもしれませんが、
もし、そのような人が現れるなら、きっと、年齢・性別等に関係なく、
尊敬出来るのだと思います。

「年上でも尊敬出来ない人」を想像すると、この感覚は伝わると思うのですが、
「年上なのに、尊敬出来ない人」はきっと、自分に価値観を押し付けてくるし、
「年上で様々な経験をしている自分を尊敬しないのは間違ってるよ?」みたいな
圧力がある人程、人間性に厚みが無いと言うか、柔軟性が無いと言うか…
まぁ、簡単な話、その人に対する愚痴は溢れてきますよね。

誰とでも「分かり合える」という人間関係の広さではなく、
限られた人しかいなくても「分かり合える」という「深さ」が大事であることを
改めて実感した訳なのですが、それすらも経験出来なくて、
さながら地獄の淵を歩いている感覚しか無いのならば、
当然、心が闇落ちしていく訳で…
そうなると、手近な救いに飛びつきたくなるのも、分からなくはないのです。
ただ、他者に期待する行為自体は、良い結果を生まないと思っているので、
闇堕ちしたとしても、このことだけは心に留めておきたいです。

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結局、感動するって大事

たとえ、一人で勝手に感動しようと、どうでも良いのですが、
人として生きている以上、自分自身が「感動する」ことは大事なのだと思います。
その感動を、「誰か別の人と共有出来る」なら、それは重畳なのでしょう。

ミニマリスト的かどうかは分かりませんが、
ありふれた感動を軽んじてはいけないのだと思うのです。
たとえ小さな感動でも、大切な心の揺蕩い。
「心が揺れ動く」そんな感動を1つでも多く積み重ねることが出来る人生が
きっと、幸せな人生で、その感動は、「十人十色」なのでしょう。
それこそ、ありとあらゆることに「感動」することは出来ないので、
自分自身にとって、大切な価値観の枠の中で「感動」する体験を
増やしていきたいと、そう思う訳です。

そう考えると、「多くの物に囲まれる生活」に感動を覚えないなら、
物を少なくしても良いのではないだろうか。
それが、ミニマリストなのではないだろうかと。
あれ、これ、「こんまりメソッド」じゃない?
「感動=ときめき」なら、きっと、そうなるよね。

終わりに

結局の所、自分の持っている時間やら何やら様々なリソースを、
どのように活用するのかを「考える」ことが大事だということですが、
意外と、「考える」という過程をすっ飛ばしているのが、現代の悪いところ。

改めて、自分で考え行動し、自らの幸せとは何かを考えるきっかけになる
そんな週だったように思えます。

1年の後半戦も始まって、気づけば1ヶ月が経とうとしている訳ですが、
何かかしら、「感動」したり、「自分の思い描く幸せ」に向かって行動出来ていれば、
よい、後半戦のスタートを切れたのではないかと思います。
忙しいことも多くなったりするけれど、体調に気をつけて、
頑張ろうとする自分を褒めてあげたい。
明日からも、一日一日を大切に生きていけるようにしたい。

今週はそんなところ。

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