2022 5/23~5/29 道具は「どう使うのか」が大切

今週は、茂木健一郎氏の「テストなんていらない」という発言や、
落合陽一氏の「活性化関数が…」というワードが
個人的に気になったので、それについて、
適当に考えてみようと思います。
どちらも、ツイッターからの発信になります。
ちなみに、自分は文系。初めて「活性化関数」というワードを
聞いたので、一応調べてみましたが、きちんと理解出来ているかは不明。
そこのところは、ご了承下さい。ただの言葉遊びです。

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道具の使い方を知ることは大切だけど…

先日、茂木健一郎氏のこんな発信を見る機会があった。

もちろん、文脈を切り取って、この発信単体のみを考えるのも
どうなのか。というところだが、とりあえず、考えたいテーマの1つ。

まず、今のテストに対する認識を改めると、
「知識重視で、インプットした知識を、正しく再生出来るのか。」
という、機械じみたテストが横行…、
というか、知識を覚える→書く。
覚えているのかどうか、それを確認するためのテストになっている。
ということが無駄。というもののように思える。

実際、「インプットして、正しく再生させたいならば、機械で良いよね?」
というものなのだろう。
人には人にしか無いクリエイティビティがあるはずなのに、
それを殺して「機械の真似事」をさせ続けるならば、
人工知能より劣った人間が教育によって生み出されるのでは?
という辺りだろうか。多少言葉が荒い気もしてしまうが。

ここで、注目したい発信は、「学問を語る」という部分。
「実用的に、学問をどのように活用するのか」を語れるかどうか。
「現実の世界に落とし込める思考を、学問を通して伝えられるか」
これらを語れるのだろうか?と捉えてみる。

実際、学校教育での学びを、模倣するだけでは、
結局、自らが何かを生み出す側にはなれそうもない。
今の現状は、学んだものをいかに社会、もしくは、
世界に対して活用出来るかどうかが問題になっている
というところだろう。

これを、道具で言い換えると、
今の学校教育のテストは、道具の種類を覚えさせられている状態。
実際は、道具の使い方や、活用の仕方を理解するべきなのに、
「この道具はこういったもの。危ない側面もある。」
みたいな知識を覚えさせられる。
実際のところは、活用する中で気付ければ良いのでは?
というように、変換出来るのではないだろうか。

もちろん、道具を扱うためにトレーニングをする必要はあるかもしれない。
ただ、道具の種類を知っていることと、
活用できることは別のことではないだろうか?

言語で言うならば、話す練習=言語を扱うためのトレーニングだとして、
「文法の名前を知っている」とか、
「〇〇という語順をとる単語は語呂合わせで覚えましょう」とか、
そういった知識をテストで確認して、実際に使えなければ意味ないよね?
ならいっそのこと、テスト全廃で、活用するためのトレーニングだけ
していれば良いのでは?という問題提起だと感じる。

このような極端な発想に対しては、必ず強い反論があると思っていて、
例えば、「教師は、生徒に対するテストがなければ学習到達度を評価出来ないです。」
とか、「入学試験はどうするの?」とか…
学歴社会や評価社会を反映したような反論は推測出来る。
(自分としては、自分の価値観に適した会社選びが出来るのなら、
自分の価値観に適した大学選びも出来るのではないかとは思うけど…)

さて、ここで一旦落ち着いて、また、別の問題を取り上げてみよう。

最近、あまり聞かなくなった?
「老害」という言葉に隠れた思考回路

「老害」という言葉を単体で聞くと、
「お年寄りの面倒な説教」みたいな意味を想像するくらいには
言葉が定着してしまったようには思えるけれど、
ここにある思考回路を考えてみたい。

思考の手順はきっと、
①自分の世代とは異なる考えに触れる。
②自分の経験の方がためになる。価値があると考えている。
③異なる考えと、自分の経験を比べて、自分の経験が優位であると判断する。
④「今の若いものは…」の発言に近しいことを述べる。
といったところだろうか。

ここで、取り出す道具は、
落合陽一氏のツイッターでの発言にあった、
「活性化関数」です。
初めてみるワードで、語呂が良いな。と思って調べてみる。

「活性化関数」に対する自分のざっくりとした解釈としては、
大量の画像を機械学習させた後で、
曖昧な画像を見せた時に、特定のタグを付けれるように
するもの。的な解釈。文系脳の自分には今のところ、
これが限界。今後の自分の成長に期待。

兎にも角にも、先程の思考過程で、
結論として、「自分の経験が優位」という
1つの解を導いている辺りは、関数のそれ。
言ってしまえば、老害化関数か?いや、
「自分の経験が優位だ」という結論を下すのは、
何も歳をとった人間だけではない。
とすると、適切な命名はなんだろうか。
「中身のない経験が優位になる」ことが鬱陶しいから、
「形骸化関数」とでもしておこうか。

この、「(中身のない)自分の経験が優位である」ということを、
自慢げに話されると、どの世代の人間だろうと鬱陶しい。
まさに形骸化した思考なのだろう。
その人は、新しい思考を取り入れられなくなってしまったのだ。
と思うと悲しくなってくるが、当の本人は、幸せなのだろう。

これは、自分自身が戒めとして留めておきたいところだ。
形骸化関数に支配されることのないように、
様々な考えに対して、同意するかは置いておいて、
思考を巡らせることの出来るようにしたい。

まとめ

さて、テスト全廃は可能だろうか。
形骸化関数に支配されずに考えよう。

大きな枠から考えると、
組織として、急な制度の変更はおそらくありえない。
となると、現状のまま、ある程度時は流れるのだろう。
テストが必要だと考えるなら、テストのために学んだら良い。
テストが不要だと考えるなら、無勉強で高得点を取れるだけの実力を
別の方法で身につければ良い。
ただ、今の日本社会においては、
時々、テストによって測られた指標が必要になるから、
その制度を活用するためにテストを受ける必要がある。
その時々の「テストのためのテスト」のあり方くらいは、
多少は変更出来るのでは?
「テストのためのテスト」を無くすとして、「学問を語れる」だけの
人材はあるのだろうか?
結局、組織は形骸化してしまう以上、組織に変わってもらうのは
無理というもの。どの世界線の社会でもそれはきっと同じ。

茂木健一郎氏の発言の一番最初に戻る。
結局、「学問をいかに面白く伝えられるのか。」
これに尽きるのだろう。面白ければ、勝手に学ぶ。
面白くないから、学ばない。ただそれだけ。
根本の学校のあり方が問われる問題だろう。
(極端な話、「各学問を面白く伝えることの出来る国選の教師による
オンライン授業を、生徒が選択して受ける」ことが出来れば…)
…思考がショートしてきたから、もういいや。
考えることは大切だけど、結局、答えが出ない問題です。

変えることの出来る変数は、自分の考え方のみ。
自分の思考や行動が形骸化関数化することのないよう、
新しい事柄や、新しい些細な挑戦は続けていきたいと思う。
そんなことを思うような発信を立て続けに見た週だった。

自分の知識は、どう活用出来るのか。
そういったことを考えながら来週は過ごしてみようか。

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