世間との時間感覚のズレを言語化してみる

日記

「周りにおいていかれているような感じがする」「自分以外のすべての時間の流れが早く感じる」そんな感じで、世間一般との時間感覚のズレを感じていて、周りの人には全く共感されずにここまで生きてきたのだけれど、その「ズレ」の感覚をなんとなく言語化してみようと思った記事。

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キーワードは、直線的時間と循環的時間

直線的時間の話

直線的時間とは、まぁ、詳しいことを言わなくても、もう実感しているはずで、朝〇〇時に起きて、〇〇時の電車に乗って、〇〇時に仕事・学校で過ごし…etc.

そんな時間を過ごしながら、〇〇歳になったら、〇〇っていうイベントがあります。のような感じ。

万人に共通して訪れる感じの時間。資本主義的な社会生活を営む上で、守っている時間感覚は、直線的で、その時間になったら、必ず自分の期待していることが起こるとも言いかえることが出来ると思う。

そんな直線的な時間に対して、違和感というかちょっとズレというか、そんな感覚を持っていたのだなぁ。と最近になって言語化できるだけの言語的知識と、言い回しを身につけたように思う。

ついでに付け加えると、多様性ということもキーワードなのだろう。

んで、直線的な時間で、万人が平均的な能力を獲得させられるような教育制度の下では、資本主義の成長においては、都合が良かったのだけれど、現在において、あるいは、これからの世の中においては、そんな直線的な時間感覚のままだと、都合が悪くなるように思える。

何がキッカケかというと、「AI」。AIの台頭によって、AIに仕事を任せると、平均的な仕上がりになることがある程度知られてきて、その平均的な仕事を爆速でこなすことができるから、Open AI社のサム・アルトマンがかつて言ったように、「中央値以下の人間はAIに取って代わられる」なんていうことに繋がってくる。平均値と中央値は異なる値だけれど、一旦スルー。

まぁ、AIによって、平均的な仕事をそれなりにこなしていた時代から、AIに置き換わるんじゃないかっていう過渡期において、今まで過ごしてきた直線的な時間のあり方も問われてくるように思える。

資本主義的な時間感覚に縛られることも無くなってくることを想像すると、つまり、AIがある程度の仕事を請け負うことで、人の時間はかなり自由に使えるようになってくるはずで、そうなると、時間の価値をお金に変えていた資本主義のあり方も問われてくる。最低賃金とかいう議論も、AIがすべてを代替した後においては、人はどう生きるべきなのかという議論に変わってくるのかもしれない。

人間は、どう生きるべきなのか。この問に、直線的な時間感覚でもって答えを出そうとすると、加速主義的な発想になってしまって、SDGsとは相容れないし、テクノロジーによって新たに創発される仕事もあるから大丈夫と、たかをくくっていると、技術進歩に追いつけなくなる未来が見える。現状、AIの進化が速すぎて、もうすでに、シンギュラリティの侵食は始まっていると感じているし、人手不足はAIで解消されることが考えられるので、活用できる、あるいは、創発できる人による、開発競争に基づいた経済になるかもしれない。AIリテラシーがある人に富が集まり、そうでない人は、AIに置き換えられるという、かなりの世紀末感がある世界線も、あながち間違いではないかもしれない。経済格差は開く一方なのか、どうなのか。

話はズレたけれども、この直線的な時間感覚は、ある一定の年齢になったら、〇〇をする。みたいな感じなわけだけれど、「人間」の成長は、必ずしも直線的な時間の上に成り立っているわけではなく、個人差があり、まさに多様化したって良いはずで、人の精神的な成長の速度も異なれば、社会に関わってみたいなんていうことを思う、つまり、仕事を始めようと思い立つ年齢(直線的な時間)も異なっていて良いはずで、直線的な時間では測れない人間個人の成長に眼を向けてみると、世の中を支配している資本主義的な直線的時間には、疑問を持たざるを得なくなってくる。

AIの開発速度、あるいは、進化速度は、この直線的な時間を破壊する勢いで直角的に進化しており、人間の進化と、直線的な時間軸を基準に比較すると、当然、AIの圧勝になる。人間の進化は遅い、というか、アップデートすることがなくなることも考えると、やはり、AIには叶わなくなってくる未来が見える。

この直線的な時間の感覚のまま生きることに対しては、ちょっとばかり、疑問を投げかけておきたい。というか、定期的に投げかけているような感じはする。最近はちょっと減ったかもしれないけれど。

循環的時間の話

じゃあ、循環的な時間はどうなのか。というと、ある種、資本主義的な時間の流れに従わない時間感覚と言ってもいいと思う。

資本主義的な社会の中においては、時間は最優先事項で、タイパを求められることもある。日々効率化を求められ、コスパを求められ、挙句の果てには、経済という実態の無い何かを動かすために、人一人の時間を削り、幸福度を著しく下げることにもなる。お金を持っている人が、持っていない人に対して、不条理を押し付けているといっても過言では無いかもしれない。

循環的な時間は何かと言うと、季節の巡りだったり、その時その時の食べ物の変化、自然摂理的な法則に則った時間感覚で、最近は温暖化でよく分からない気候になりつつあるけれど、そんな自然摂理的な時間に身を任せることをしたほうが良いんじゃないかっていうのが循環的な時間で、そんな循環的な時間の中を生きることを押してみたいというのが最近の感覚。

カレンダーに基づく日付、人が決めた時間、そんなことをすべて放り投げて、一旦脇に置いておいて、自然摂理に則って生活をする。これが意外と心地よかったりもする。

かつては、東日本大震災で、電気・ガス・水道といったライフラインが全て破壊された生活を一ヶ月程過ごした、いわゆる被災生活をしたこともあったわけで、そんな被災生活において、夜に見上げた星空が本当に綺麗だったのを覚えているのだけれど、その時の生活は、まさに、循環する時間の中に身を置いていた経験だったのかもしれない。明るくなったら行動して、暗くなったら寝る。そんな単純な生活。

単純が故に奥が深いかもしれない。やることは多いし、大変なこともあるけれど、余計なことを考える必要がないから、ストレスもあまりない。刺激がありすぎる直線的時間軸の資本主義と、刺激は少ないかもしれないけれど、同時にストレスもない循環的時間の生活。適度なストレスが無いと、ダメになるということは言うけれど、「生きる」ということだけを考えた時のストレスは、おそらく相互扶助の考え方で乗り切るのだろう。

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生活のスタイルはおそらく多様化する

オンラインが定着し始めたコロナ後の生活において、AIは水面下で着実に進化を続けている。

もはや水面下ではなく、ある時急に、壁として立ちはだかるかもしれない。「その時人類は思い出した。AIに支配されているという事実を」なんてことになるかもしれない。

生活のスタイルが、というより、様々な事柄が多様化していることに気づき始めた昨今、生活のスタイルすらも、選べる時代になるかもしれない。幸福追求権では、職の自由だったり、色々自由も認められているけれど、働き方までは明記されていないような感じもするし、なんとなく、産業革命以後の、週休二日制、かつ一日8時間労働は、そのまま定着している。

いい加減、変わっても良いでしょう。資本主義なんていう実態のない訳のわからないものは、AIに回させておいて、人は、循環的な時間軸のなかで、相互扶助を基準に生活を成り立たせてみる。そんな世界線を想像すると、意外と、心地は良いのだろうか?なんて思う。

こんな思考を巡らせて、あるとき、周りの話し声を聞いて思う。

「今年は〇〇のデザインのコートを買いたいと思っていて…」

デザインと直線的な時間が相まって希少性を生み出しているこの世の中。

やはり、ある程度、群衆に紛れて、群衆の一部になって、わけも分からず生活を続けられるのが、一番手っ取り早く、楽なのだろう。

結局、人は資本主義から逃れることはできないのかもしれない。そんな中でも、循環的な時間を求めてみたいと思う昨今。世間ズレする未来しか見えない。

生活は多様化するかもしれない。その他の事柄も、多様化するだろう。

多様化したことを認めるかどうかは、また別の話。きっと、多様化を認めない人もいるはずで。そうなると、AIの進化を認めない人もいるはずで。あるいは、自分の持つ意見に対して、ことごとく反対意見を持っている人もいるわけで。

そんな世の中。正解はない。冬が来て、春が来るときっとまた思う。季節は巡るなぁ。って。

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[2023 11/13 ~ 11/19: 怜丁日記]

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