やっぱり体験って大切だ。って話。

日記

いろいろあって、新しい体験をする機会があったのですが、読書をして読んだ知識だけがあることよりも、実体験が伴った知識のほうが、何よりも貴重でそんな体験から得た経験にはかなわないのだなぁ。って思ったことを綴ってみる。

スポンサーリンク

人生初の釣りをする機会があったわけで。

最近、自分が興味を持っていることの一つに、地方への移住というものがある。偶然にもネットサーフィンをしていてたどり着いたのだが、移住スカウトサービスを提供しているウェブサイト『SMOUT』で偶然見つけた体験の一つを実際に体験させていただきました。

今回は釣りなど。漁業には関わりが無かったし、あまり海と関わることも無い人生を送ってきたので、一回関わってみたら、なにか変わるかもしれないと思いながら体験をしてみたわけです。

個人的には、AIについて調べすぎたり、色々メンタルがやられたりで、一旦、「生きる」ということに全力を注いでも良いんじゃないかって思いつつ、そんなことを考えると、第一次産業が、つまるところ、農業やら漁業に携わってみても良いんじゃないだろうか。と思い至ったのがきっかけだったわけです。

そんなことを考えていたのですが、体験をしてみて思ったことは、体験に勝る知識は無いし、体験から得られる経験は、その人の財産なのだなぁ。というところ。

なにより、今回の体験を通して、「生きる」ということに対して、かなりポジティブに、何より、「楽しむ」ということをモットーにして生計を立てている方々に会って、「自分が楽しいと思えるものを突き詰める」ということは大切なのかもしれないなぁ。と実感したのです。

正直、体験をする前は、周りと自分を比べたときに、周りの方々は、ある種の「幸せ」という形を体現していて、それなりに充実した日常生活を送っていることを感じ取ってしまい、自分の「空虚さ」みたいなものを痛烈に感じてしまったのだけれど、一通り体験を終えて、その人がどのような心持ちで事業に取り組んでいるのかを知った時、やはり根底にあるのは、「自分が楽しいと思えるかどうか」という部分だったので、結局のところ、自分が「楽しさ」を感じることが出来るところはどこなのだろうか。ということを自問自答するきっかけになった。

海の上で。船上で。水平線を眺めながら思った。

デジタルデトックスだったね。日光に当たることも良かったのだろうけれど。

一旦話を戻して。人生初の釣り体験では、クロダイが釣れました!

写真は、撮って無かったね。そういえば。手汚れてたし。汚れた手で携帯触りたくなかったし。潔癖症が発動してしまった…

とはいえ、「釣り」という、リアルガチャみたいな経験をしてみると、充実感があるなぁ。と思ったのも事実で、普段、ゲームばっかりするか、読書ばっかりするかのインドア派からすると、結構新鮮な体験でした。

自分には、こういったリアルな体験がかなり欠けているのだなぁ。って思ったのも事実で。なにかに「挑戦してみよう」ということは簡単かもしれないけれど、それを実行に移すとなると、かなり勇気もいるし、困難にもぶち当たったりする。けれど、何かしらの成果みたいなもの、いわゆるフィードバックがあると、「面白さ」を感じるのだろう。

さて、自分は「海」に「面白さ」を感じることが出来たのかと言うと、う〜ん。やっぱり山派かな。「海」の良さもあるけれど、何より、「海」の近くにいる人たちとか、「海」に関わっている人たちって、みんな気さくで明るくて、素晴らしい人たちで。なんというか、自分には眩しすぎるなぁ。って思う瞬間もあり。環境って難しい。

「釣り」は楽しかったです。もちろん。んで、それを生業に、つまるところ、実際に移住して、そういった活動だったり、様々な取り組みで生計を立てられるのか。ということを考えたときに、自分はその「環境」をそこまで好きなのだろうかって、思うんだよなぁ。難しい。結局、体験を通して、わからなくなった。

自分の「好き」ってなんだろう。

体験には敵わない。知識の差を実感する。

コレもまた体験絡みなのだけれど、普段、自分は、自分の興味の赴くままに知識を得たりするのだけれど、コレは全部インプット情報、つまり、AIが学習する方法と全く変わって無くて、ディープラーニングと変わらないなぁ。って思うのです。

どういうことかと言うと、落合陽一さんと今井むつみさんの対談において、「言語の接地」という言葉がキーワードになった動画がある。

んで、人間は、AIとは異なって、経験をもとに「言語」を知る。ということを言うわけだけれども、ふと考える。

ある時を境に、知識だけの埋め込みになっているんじゃないだろうかって。

だから、こんな疑問が出てくる。「こんな知識使うの?」って。

普段の、というか、現在の教育制度自体もあまり変化していないので、「知識→暗記」みたいになって、暗記が上手な人がうまく立ち回れる環境であることに間違いは無い。けれど、それって、もうAIで良いよね?って思う。

いつの時代だか忘れたけれども、現代の教育制度になる前は、「弟子制」で、音楽家になりたい人は、音楽家の弟子になっていたりして、だから、クラシックの音楽家は、みんな何全曲と曲を作っていたわけで。つまり、「経験→知識→活用」の一通りの流れがあって、それを、一家相伝では無いけれど、人から人に繋いでいった時代があった。

果たして、今の教育では、「知識→活用」になっているのだろうか?なっている方々は、きっと、研究者だったり、それなりの地位で活躍しているのだろうけれど、そうじゃない勢が当然いるわけで。

んで、今回の「釣り体験」から思ったのは、こういう経験を通して得た知識を持っている方々は、本で得た知識を持っている人よりも、体験がある分、経験として語りやすいし、実行に移しやすいのだろうなぁ。って。

今回の「釣り体験」では、自分が得た知識なんてものは全く役に立たず、「体験」を通して得られた知識を持っている人のほうが圧倒的で、ただ書籍からインプットするだけでは無意味なのかもしれないなぁ。って。

そう考えると、「言語の接地」をしている人間がすごい!という論調もある程度までで、ある時を境に、現代に生きる人間はAI化が求められる教育を受けさせられているということになるよなぁ。と。

確かに体験を通して得られる言語もあれば、知識もあるだろう。けれど、そこで問題になるのが、「体験格差」と言われるものになってくる。

「体験」が欠けている人は、もれなく全て、AIの劣化、あるいは、感情を持った動物、もしくは、制御不能のAIみたいなものに成り下がりそうだ。って。

Chat GPT を開発、Open AIのCEO、サム・アルトマンは、「AIは、人間の中央値くらいまでの生産を置き換える」みたいな発言をして、炎上していたけれど、AIより人間が優れるとしたら、その「体験」を実際に持っているかどうか。になってくるのが今後の世界観だろう。

とはいえ、一部、サム・アルトマンの発言で確かになぁ。と思う部分は、知識だけの人間は、きっと、下から淘汰されていくのは事実だろうと思ったりもする。

そう考えると、「シンギュラリティ」っていうのは、「人間」という種全体に突然に降ってかかってくるものみたく捉えられているけれど、実際はそうではなくて、ヒエラルキーの下の方から順番に、徐々に淘汰されていくものなのだろうと思う。

だからこそ、もうすでに、ある人にとっては、「シンギュラリティ」は訪れているのかもしれないとも考えられる。

AI時代に、人間はどう生きるのか。それが本格的に問われるだろうね。きっと。

まぁ、色々話がズレてきた気もするけれど、結局、「体験」をしなくなった人間は、「AI」に取って代わられ、発酵してしまうのだろう。っていう話。

いつになっても、新しい体験は、し続けるべきなのかもしれない。

回り回って、サイクロイド。「好き」ってなんだ?

サイクロイド。気になった方は、ウィキペディアへどうぞ。

サイクロイドは置いといて、まぁ、サイクロイドみたく自分の思考は巡り巡るんです。

太陽のもと、海の上で何時間も。デジタルに触れず、遠くを眺めたり。もちろん、「釣り体験」しながらね。

そうやって、自分と向き合いながら時間を過ごすと、やっぱり思う。「好き」ってなんだろう。

あまり気にする必要もないのかもしれないし、人と比べるようなものでもないのかもしれない。

とはいえ、自分自身、あまり良くないけれど「八方美人」をスキルとして身につけてしまったことの弊害として、自分自身の「好き」という感覚は、かなり腐っている気がする。

ピアノは、「好き」なのだろうか?どちらかというと、曲を「弾きたい」であって、「好き」では無い気がするんだよなぁ。なんというか、「感情表現」というか。言語化出来ない感情をピアノで表現している感じがして、弾きたい曲を練習している時間なんて、もはや修行だし。「好き」とはちょっと違うかもしれない。

英語は、「好き」かといわれると、結果として、日本語以外での情報収集が出来るようになったから、スキルとしては良かったのかもしれない。けれど、そのスキルが「好き」かと言われると、う〜ん。なんだろうね。

多分、自分の知らないことを「知る」ことは「好き」なのかもしれない。

ただ、それを活かすとなると、どうしても場面が限られるような気もして。いや、むしろ無いような気がして。

人の意見に流されてしまったが故、自分自身の「主張」というものが欠けてしまって。やはり、そういった「主張」を取り戻すには、「体験」なのだろう。様々なことに取り組んでみながら探しても良いのかもしれない。

結果的に、「今」に落ち着くかもしれないけれど、「体験」を通した後なら、納得はできるのだろう。

そう。圧倒的に「体験」が足りない自分は、一つずつ積み重ねていくしかないのだろう。

人生を通してみると、ありとあらゆることを「抑圧」されてきたようにも思える。ネガティブな記憶のほうが定着しやすいから、仕方がないことかもしれないけれど、そんな「抑圧」から開放されるには、「体験」がキーワードにはなるだろう。

「体験格差」

これは、子供に限った話ではない。

大人でさえも、「体験」が無い場合の話は軽くなってしまうのだろう。

なんか、思うんだけれど、自分の人生、心に対してネガティブなことしか体験してない気がする。なんか、守られてなかったかもしれない。

そんなことを考えると、また「闇落ち」するから、いかんよね。

ちょっとずつ。体験できるなら体験してみよう。そうしよう。

体験は、人をポジティブにする力があるかもしれない。

スポンサーリンク

[2023 10/2 ~ 10/8:怜丁日記]

ブログランキング・にほんブログ村へ

コメント

タイトルとURLをコピーしました