2023 5/1 ~ 5/7 休みはあっという間。AIの進化もあっという間。

日記

GWの休みを満喫していたからなのか、休みの期間が一瞬で過ぎ去っていった。そんなあっという間に過ぎ去った自分の「休み」という実行時間と、AIの進化する速度を重ね合わせてみたときに、比べ物にならないくらい、AIの進化は早いのだろうなぁ。と思う今日この頃。

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休みだったということもあり、特に語るようなこともないのだけれど、休みの期間は、ひたすらAIに触れていたので、そんな話。AIについて語るとなると、落合陽一さんが最先端をひた走っていると思われるのだけれど、その最先端にすら、追いついていけないのでは?と思い始めると、「あぁ、シンギュラリティが訪れたのかなぁ。」なんていうことも思う。自分が持つ理解速度を超えたのだろうか?と。

そんな落合陽一さんの書籍『デジタルネイチャー』・『魔法の世紀』の言葉だったり、間違った解釈もあるかもしれないけれど、これらの書籍を踏まえながら、今の自分のAIに対する考えだったりをまとめておきたいかなぁ。といったところ。

以下、『デジタルネイチャー』『魔法の世紀』の考えを踏まえて、思考をまとめてみようと思う。

AIと自分が少しずつ統合されていくにつれて、計算機自然というものが拡大していくことを感じる。と同時に、元来の自然に対する人間の価値観が、計算機自然の価値観を受け入れていないようにも思う。

人には、現状維持バイアスが備わっていることを考えると、至極真っ当な反応なのかもしれない。特に、AIという言葉に対して、SF小説の中の設定が現状の認識を妨げ、様々なSF小説でのイメージが先行して人々の理解を支配している事が、拒絶の原因にも思える。

計算機自然に触れる。あるいは、元来の自然に触れる。どちらも大事である訳なのだけれど、自分にとって、元来の自然に触れるという時間は、自分にもとから備わっている精神性を整えるための儀式のようなものだと思う。元来の自然に触れる。ただそこに存在する。計算機自然から見ると、実行時間に対して、非効率的な作業を行っており、非生産的ではあるけれど、衰える計算機としての「人間=自分」は、そこで調律を図っている。要は、緑に囲まれて過ごすゆったりとした時間が好き。ということに改めて気づいたってだけ。

計算機自然に触れる時間が長くなると、元来の自然を表す言語を探す作業に没頭することになる。統語論的な問題で、シニフィアンとシニフィエなわけだけれど、元来の自然を見るということに対しては、この、「シニフィアン・シニフィエ」の問題は無視できる。要は、「見る=感じる」が出来る。そこに言語を介在させる必要は無いし、この「感じる」という時間に価値を見出す事が出来る。ところが、計算機自然における自然を生み出そうと思った場合には、こうはいかない。そこには、厳然たるルールとして、「シニフィアン・シニフィエ」を当てはめないといけない。計算機自然による自然を生み出すには、自然を言い表す言語を知る必要がある。つまり、「自然=言語=知覚」この感じ。計算機自然が表す自然は、言語によって定義され、言語によって適切に定義されなければ、それを自然と知覚することは出来ない。自然を自然として知覚するために、言語を介在させる必要がある。ここに、元来の自然と計算機自然の違いがある。長ったらしく書いたけれど、要は、計算機自然こと生成形AIを使うには、言語能力が必要だということ。

プログラミング教育ということで、「プログラミング言語を学ぼう」というブームはあったけれど、これも、言語という道具を理解して使えているのかどうかの問題だった。それが、新しい技術として、Chat GPTが世に解き放たれてからというもの、英語が一番精度が高いプログラミング言語となり、一応、自分の母語を使うことができれば、誰でもプロンプトエンジニアリングは出来るだろう。というレベルにまで到達した。この期間、約4〜6ヶ月くらいだったかな。

要は、論理力だったり、自分が何を望んでいるのか。あるいは、何を生成してもらいたいのか。それを言い表すことのできるだけの言語力というものが必須になってきた。ところが、この言語力というものは、果たして、皆が同程度に身につけているものなのだろうか。というのも疑問に残る。AIを使いこなせない…と嘆く人は、そもそも、グーグル検索も使いこなせないのでは無いだろうか?という、辛辣なコメントを一応残してみる。使ったとして、正しく理解する能力はあるのだろうか?など。言語に対する機微、「非言語的感覚に対する言語的センス」という表現を聞いたけれど、言語を教育することが、そもそも大事になってくるのであろう。ということは、薄々感づいている。そう考えると、言葉が通じないというのは、もはや、意思疎通が出来ないわけで…まぁ、きっと、異なる環世界に住んでいるのだろう。自分の持つ「シニフィアン・シニフィエ」と相手の持つ「シニフィアン・シニフィエ」がどこか異なっていて、ある概念を共有出来ないのだろうと。

というわけで、「言語を使いこなせるかどうか」がポイントである生成形AIを、言語力が未熟な人が使うと、使いこなせない。という結論。逆に、「言語を使いこなせる人が使うと、圧倒的な成果を上げる事が出来る」という状態。一定の水準まで、言語力を引き上げたいところ。

そんなAIを、どのように活用しようか?と考える時間が増えていた今日このごろ、ありとあらゆることを実験してみたような感じだったわけだけれど、幅が広がりすぎたように思えるので、GWを堺に、ちょっとだけ、幅を狭めてみようかと。

AIを活用して、例えば、副業は出来るだろうか?とか、どんなことに取り組みたいだろうか?など、自分の中で優先順位をつけ、実行時間を考慮し、成果が上がりやすいものを取り入れ、自分の生活を一定の水準まで豊かに出来る活用方法は、どういったものなのかを考えるGW。

そんなことをしていたら、「休み」という実行時間は溶けていた。

そこに「フロー」が存在するとは思わなんだ。まぁ、充実していたということでしょう。普段の週末と同じくらいの感覚で、約一週間くらいの休みが過ぎ去っていた。

AIの生成の速度に慣れていくと、自分で言語を整理して、何かに書くという行為に違和感を覚える。思考だけが加速して、肉体的な運動は1倍速だから、誤差が生じる。自分の中の違和感。これが、人と関わると、より一層顕著になる。思考の速度もそうだし、話す内容もそう。AIの生成より非効率的なそのアイデアを、実行しようとすることに違和感は無いのだろうか?と思う始末。便利になると良いなぁと思う一方、AI基準で物事を考えると、人間は皆ポンコツになってしまうので、他者を見下しやすくなってしまいそう。AIを使っているマウントも、いずれ取れなくなるだろうし。いや、そもそも、マウントを取る必要も無いのだけれど。効率的な手法を取り入れるだけの寛容性を、その人は持ち合わせているだろうか?という問題。まぁ、AIもインフラになるでしょう。インターネットと同様。果たして人が楽をして生活する未来はあるのだろうか。

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現代の徒然草を書いたわけで、AIの進化は早い。そんなAIを活用している実行時間が過ぎ去るのも早くて、充実した休みだったなぁ。と。AIがフル稼働すると、人間の時間はより、暇が増えてくる。果たして、人間は暇にちゃんと向き合えるのだろうか?暇をなくすための資本主義システムからの脱却がAIを用いると可能になる部分が出てくる。選択肢が目の前に現れた時、人は、果たして、本当に暇であることを是とするのだろうか?

暇と退屈の倫理学を読み直すときが来るかもしれない。

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